ライオンの日に、リサ・ラーソンのライオンについて、考えた。
リサ・ラーソンは、対象とするものが人であれ、猛獣であれ、植物であれ、その「こころ」の真っ芯に飛び込んで、その宇宙の一番深いところから、意味や言葉ではなく、「かたち」を取り出してくる。その「かたち」は私たちが見ている形とは随分違っているので、最初は驚いたり、思わず笑ったりしてしまうのだけど、少しすると、リサが取りだしてきた「かたち」こそが、そのものが本来持っている本当の「かたち」なのではないか、と思えてくる。リサは見えない「かたち」を取り出すお産婆さんみたいだ。その意味で、リサは、巫女であり、シャーマンであり、呪術師だと思う。リサに会ったとき、私はそう思うのだと、日本語で説明したら、リサは「こころ」という日本語の音が面白かったようで、KO KO ROと何度か面白そうに発音した。
リサ・ラーソンのライオンは、リサの「かたち」の魔術を代表する作品のひとつだ。リサは動物を作るとき、完全に動物に憑依している。犬や猫やライオンの言葉を彼女は理解しているというレベルを超えて、その動物のたった今の感情とシンクロしながら、土に感情を練り込んで、「かたち」がせり上がってくるのを待っているのだ。そうとしか思えない。リサは打ち合わせをしていて、話がある領域に突入した時に、遠くを想うような表情になる。そんな時は必ず、話しているその場から心が浮遊して、創作の世界に飛んで行っている時だ。ああ、リサはこんな風に動物の世界に行ってしまうのだな。私たちは現実の世界に置いてけぼりになりながら、リサが次はどんな「こころ」から、どんな「かたち」を取り出して来るのか、占い師の次の予言を聞くように、期待と緊張で待っている。
リサのライオンは、あの、勇ましい百獣の王とは随分違っている。どう見てもライオンの象徴である「たたかい」とは縁がなく、彼は、人の話を辛抱強く聞く世話好きないい人のように、真っ直ぐ座って私の言葉を待っている。彼は、型にはまったライオンイメージを拒んでくる。僕を、見かけと、噂で判断しないでくれ。僕は、君たちが考える獰猛なライオンである以前に、ひとつの心という宇宙を持った生き物なのだよ。正確に、焦らずに、固定概念を捨てて、ゼロベースで僕について考えてくれたまえ。
私たちはリサのライオンの目に吸い込まれて、心が浮遊し、リサの用意した気流の流れに乗って上昇する。そして、忘れてしまったアフリカの草原の風を感じたら、急降下でライオンの深い心にまで降りていく。戻ってきた時には、もう、昔の私ではなくなっている。リサの作品は、いつも、そんな冒険的な旅に私たちを連れて行ってくれるのだ。
私たちはライオンのかわいい佇まいに騙されがちだが、よく見ると、この「かたち」は、あまりに斬新だ。私の知っているライオンは、こんな「かたち」をしていない。私たちはライオンの「かたち」に、間違って生まれてきたかのような奇形を見るし、ライオンという人生の孤独も見るが、同時に、それら全部が楽観に変わる瞬間を見る。そして「かたち」に惑わされて「こころ」が見えなくなっていた自分に気づくのだ。私たちの知っているライオンは、こんなにのんびりしていないし、こんなに心を開いてもくれないし、私をどこまでも赦してもくれないけれど、本当のライオンはこっちの方だ。
僕の心をわかってくれてありがとう。君の心も僕はわかるよ。という、決して声にならないけれど、本当は私たちの誰もが言って欲しかったメッセージが、リサのライオンから、はっきりと聞こえてくる。浮遊感と憑依感、そして人生の肯定度において、リサとジブリの一連の作品は、魂の血縁であると思う。
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